先週火曜日に母の容態がかなり悪いという知らせを弟から受け、お世話になっている老人ホームに電話をかけた。
木曜日にそちらに伺いたいので面会ができないかというお願いをするためだった。
施設長と相談して明日朝電話をしますとのこと。
次の日、許可を知らせる電話を貰い、その日予定していた幾つかの仕事を済ませ、翌日木曜日にwifeと一緒に大阪へ向かう。
雨の中、直接向かった老人ホームに着いて初めて入る個室のドアを開けると、母は持病のパーキンソンのせいで激しく体を揺らしていた。
急に容態が悪くなって、ここ数日の間食事も薬も受け付けていなかったせいだろう。
声をかけても応答はなかった。
何度かwifeと声をかけても反応がないので、布団の中で小刻みに震えていた手のひらの中に指を入れるとはっきりと握り返す感触があった。
しばらく経つと薬を飲んでいないにも関わらず、なぜか震えが収まった。
手をさすりながら「聞こえるか」
と声をかけると今度は震えが激しくなった。
それでも、自分の手を握りしめる母の手が、母の思いによるものなのかどうか、正直半信半疑でもあった。
まじかに声をかけても、少なくとも顔の表情には、何の変化も感じ取れなかった。
その日は柏原の実家に泊まり、次の日の金曜日、予定していた会議のために11時前にパソコンを開いてビデオ会議に入ろうとした時だった。
弟から、今ホームから「すぐに来てくれ」と連絡があったという電話を受けた。
自分が少し時間をかけて説明しなければならない会議だったこともあり、すこしだけでも話をしてから早々に切り上げようと思ったが、2階から慌てておりてきたwifeから、事情を話して今すぐ向かった方がいいと言われ、立ち上げたばかりの会議のメンバーに状況を説明し、会議を中止してもらい、wifeと2人で実家から10分ほどの距離にある老人ホームに向かった。
自分たち2人がホームに着いた時には弟夫婦と娘2人が部屋に到着していた。
母はすでに息絶えていた。
帰りたいと言っていた実家に一晩遺体を引き取った。
弟夫婦と4人でこれからの対応を相談し、土日で通夜と葬儀を済ませることにした。
コロナの中での葬儀でもあり、知らせるのは最小限とすることにした。
葬儀屋から言われていた遺影と懐かしい写真を探すため、長らく触ることもなかった実家のタンスや棚を一通り探し回り、古くて適当そうなアルバムを何冊か見つけた。
棚の一番奥には昔何度か見たことのある昭和37年と書いたアルバムが置かれていた。
多分自分の記憶にある一番古いアルバムだった。
その写真を見ながら、子供のころの自分にとっての母が繊細で少しひ弱なイメージの人だったことを改めて思い出した。
父の実家があり、僕自身も小学校3年まで過ごした舞鶴に、お盆や正月里帰りをしたとき、母はよく体調を崩して2階で臥せっていた。
まだ中学生ぐらいだった僕が2階に上がると母は背中をさすってほしいと僕に促し、言われるままに背中をさすっていると、苦しそうに息をしながら、
「ありがとう。」とか細い声で言った。
柏原に来てしばらく経ち、母がママさんバレーを始めてから徐々に母のイメージが変わっていった。
当時ほとんどゼロからバレーを始め、上手くもないのにただ真面目に練習に参加し、補欠ばかりであるにもかかわらず、自分より年下ばかりのメンバーから慕われ、人の輪がどんどん大きくなった。
民生や料理教室やバレーも、表彰されるほど、とにかく長く続けた。
密を避けるために極身近な人にしか知らせていなかったにもかかわらず、思いのほか多くの人が通夜にも葬儀にも参列してくれた。
通夜で挨拶を求められ、6月20日のビデオ通話ではずっと寝てばかりでwifeが下手なクラリネットをピーと吹いても全く起きなかったことや、亡くなった時の経緯、昔の母のイメージ、柏原に来て大きく変わった母のことを話し、母を大きく変えたその地とたくさんの友人に感謝した。
今年の誕生日で91になるはずだった母がこんな状況の中にもかかわらず多くの人に見送られたことだけを考えても、ずいぶん幸せな半生を過ごしたのだろうと思う。
それは何よりも母自身が生み出したものだろうとも思う。
亡くなる前の母はすでに僕にとっては強い母だった。
パーキンソンで歩きずらいにもかかわらず何度も車いすから立ち上がって歩き出そうとし、そのたびにコケて骨折を繰り返した。
両股関節に人工骨を入れ、手首も両方を骨折しているにも関わらず、食欲は旺盛で、亡くなる直前まで生きる意欲を失わなかった。
自分の過去をほとんど話さなかった母だったが、身近にいた弟から、母が再婚した祖母の連れ子で、亡くなった叔父叔母と父親が違っていたことを初めて聞かされた。
弟は亡くなった叔父からそのことを聞かされたらしい。
母は自分と父親の違う弟妹をとても大切にしていた。
子供のころ自分が見ていた母の少し暗い影が、初めて少しだけ理解できたような気がした。
亡くなる直前まで、若いころよりも少しふっくらした印象のあった母の顔は、棺の中に納まった時、ずいぶんと痩せこけていた。
その死に顔は、だいぶ昔に亡くなった祖母に驚くほどそっくりだった。
葬儀の後、弟と遺品を整理していた時、弟から、母が結構細かなことをノートにメモしていたと聞いた。
弟はすでにそのメモの存在を知り、中身を見ていたので、肩身代わりにと、昔スイスに行ったときに母へのお土産で買ってきたオルゴールと一緒にカバンに詰めた。
母はその小さなノートにパーキンソンでほとんど字の書けなくなった手で、一人で実家にいる時や、老人ホームの個室で眠るときの辛さを短い言葉で綴っていた。
今年初めからビデオ通話で月に一度wifeと一緒に母と会話してきたが、離れて暮らす僕にその辛さを語ることは最後までなかった。
先週木曜日、生前の母に最後にあった時、僕の差し出した手を強く握りしめる母を感じたのが自分にとって母との最後の「ふれ合い」になった。
それがコロナの影響で会うことのできなかった母との1年半ぶりの再会でもあった。
それにもかかわらず、その日30分ほどの面会の後、握りしめる母の手を僕は少し強引にほどいて、明日も来るから、という短い言葉とともに部屋を出た。
葬儀の後、母の義理の妹である叔母と話をしていると、叔母がその前日に母と面会したとき、母はまだ、声をかけたら「うん」と小さく返事をしたのだという。
その時、叔母が同様に握った手を母が強く握りしめてなかなか離さなかったので、叔母が「トイレに行きたくなっちゃった」と声をかけたら、母は「その手の力をすっと緩めたのよ。」という。
母のその手は、確かに母の強いメッセージだった。
1年半ぶりに傍に来た自分の息子に対して、母はその手に自分の思いを込めたのだ。
最後まで、母との付き合いが下手な息子だったと思う。