やがて来る(実はもう来ている)老いを生きる

先週木曜、マンションの入り口で郵便箱を覗くと、珍しく手紙が入った縦長の封筒が二つ並んでポストに入っていた。

 

手紙をもらうというのはめったにあることではないが、それが同じ日に重なったというだけで、封を開けるのもなんだか緊張した。

 

北海道からの便りは先日のちょっとしたお祝いへの礼だった。

 

いつもながら丁寧な人柄にwifeと感心しながら手紙を読む。

 

もう一つの便りは、ずっと気になっていた一つ下の従妹からのものだった。

 

数年前、母に続いて病で突然と思える早さで弟を失くし、一人きりになった従妹だった。

 

弟の死に際して色々あり、またもともと若い頃、結婚直後の別れを経験してその後一人で暮らしていたということもあって、元気でいるかどうか、ずっと気になっていた。

 

子どものころ、夏に帰省するたびに、父方5人兄弟の子供たちが一堂に集まってよく一緒に遊んだ。

従妹は僕を先頭に全部で7人いたが、舞鶴にあった当時の祖父母の家で集まるたびに、トランプやゲームなどをして遊んだ。

特に僕の弟と彼女を合わせた上の3人は、一つ違いということもあって、宮津大江山のふもとへの墓参りやその後の橋立、神崎での海水浴、魚釣りなど、若狭の海や山の自然に恵まれた環境を子供ながらに思いっきり満喫して楽しんでいた記憶がある。

汽車で時間のかかる綾部まで行って3人でそろって扁桃腺を切ったこともあった。

 

封筒を開けるとき、正直、あまり良い知らせではないという気がしていた。

 

手紙での知らせという形も気になった。

 

そこには、1つ目の知らせとして、僕の親父の妹だった母の死後、主が全くいなくなった家の処分をしたことが、淡々と書かれていた。

 

一家が長く住んだ思い出ある家で、自分には手に余るということで仕方なく行ったその家の処分がどれだけ寂しい作業だったか、抑えたトーンで書かれているものの、その文面から痛いほど伝わってきた。

 

そして2つめ。

 

そう短く書かれた言葉の後に書かれていたのは、長らく付き合っていた人と入籍したという話だった。

 

母や弟が亡くなった時にも傍にいてずいぶん支えてくれていた人なのだという。

 

母である僕の叔母も何度か会っていたらしい。

 

手紙の最後には、古い思い出が書かれていた。

 

舞鶴に行くのが楽しみだったこと、そしてその後に、

3人そろってのへんとうせんの手術が一番の思い出です。

と書かれていた。

そういえば、へんとうせんを3人一緒に切ったことを自分はしばらく忘れていた。

 

手紙は、思い出とともに未来に向かってまだまだ元気に暮らしている、お元気で。

と結ばれていた。

 

ただどうしようもなく涙が出るのを抑えられなかった。

 

嬉しくて涙が抑えきれないなんてことがこれまであっただろうか、とも思った。

 

自分もやがて一人年老いる時を迎えることは当然考えられるだろう。

wifeは僕よりも長生きすると常々言っているが、自分があとに逝く可能性も変わらずある。

 

自分の涙は、その時の恐れへの裏返しなのかもしれないとも思う。

 

一人の生を全うすること、

生き急ぎたいと考える自分にとってはこれからの大きな課題かもしれない。

 

今朝、しばらくご無沙汰していた近くに住む別の叔父叔母夫婦に電話をかけた。

 

嬉しいニュースはすでにそちらにも伝わっていた。

電話に出た叔父は元気そうで、80を越えるのに好きなゴルフを週に何度もやっているらしい。叔母が具合が悪いということで心配だが。。

また一緒にゴルフに行きましょうとNさん(wife) に伝えてくれと言われた。

 

遅くに試験監督から帰ってきたwifeにそのことを伝えると、

あ、そう。そういえば時間があったから次の休みのゴルフを予約しちゃった。。

 

まあ、僕があとに残る心配はしなくていいかな。。