強い無念さと限りない喪失感と

 木曜日、家に帰って、何気なくリビングのテーブルに目をやると、

机の上に先日亡くなったM先生からの葉書が置かれていた。

 

どこかの郵便局に泊まっていて、今ようやく届いたのか、、

と思わず自分の目を疑ったが、wifeが、しばらく前の手紙やはがきを整理していて見つけたのだという。

 

4年ほど前の葉書だったが、そこには、冬に送ったちょっとした贈り物に対する礼とともに、いま、シロイヌナズナについて勉強している、との一言が明るい調子で書かれていた。

 

先生は当時すでに90歳になっていたはずである。

確かその少し前に3月の学会で京都に行った時、会場の一角でばったり出会って、お元気な様子に驚いて話しかけると、

今、君の論文を読んでいるんだ、と嬉しそうに話をされた。

 

僕は大学院から、宇治にあったK大のM先生の講座に入った。

 

もともと、入学時から博士課程に進むことはほぼ決めていて、それもあって当時まだ博士課程が整備されていなかった学部時代の大学からそちらに移った。

2年間、自分一人だけが助教授の先生につき、当時研究室の助手だったMiさんと自分との3人だけの小さな部屋で研究を続けて、その環境に息が詰まっていた。

Miさんには直接多くのことを教わってずいぶん世話になっていたのだが、初めて見出した新しい研究結果も、夜中に研究室で一人で実験をしていた時に見つけた結果だったことを覚えている。

どんどん夜型になって次の日朝10時以降に研究室につくと、研究室に入るのも入りづらく、そのころテーマとして進めていたメインの研究がうまくいってなかったこともあって、修士が終わるころ、すこし進学に対する気持ちが揺れていた。

助教授の先生から、君は博士には向いていない、とはっきりと言われていた。

 

その頃の気持ちが屈折して形になったのだろう。M先生にすこし留学に興味があると話をすると、M先生はどこまで自分の気持ちを理解したのかわからなかったが、

「あまりいろんなことを考えず、今は研究に専念しなさい。」という趣旨のことを

ちょっと苦笑いしながら、キッパリと話された。

 

揺れていた自分の気持ちにはっきりと区切りがついた。

もうそれ以降、別の道を考えることは一切なくなった。

 

その時M先生に自分の進学への気持ちをはっきりと伝えたわけではなかったと思う。

今になると不思議な気もするが、その前もその時以降も、M先生から自分の進学への気持ちを問いただされたことはなかった。

 

その年の冬、当時原稿用紙に手書きで纏めていた修士論文を締め切りぎりぎりに完成させたちょうどその日に、M先生は風邪で体調を崩して休みを取られていた。

修士論文がようやく出来上がったことを申し訳なく電話で伝えると、

「今からでいいから家に持ってきなさい」

と電話の向こうでそう話された。

 

ちょうどその日は雪が結構降っていたが、キャンパスから平等院近くにあるM先生の自宅まで、視界も充分取れない雪の降りしきる夜、30分ほど、助手のMiさんから譲ってもらったオンボロのヤマハメイトで、恐る恐る先生の待つ家へと急いだのを今でもはっきり覚えている。

 

初めて伺った先生の自宅で1時間ばかり、自分の修論を添削するM先生の姿を眺めていた。

 

その次の年の4月に研究室の体制が大きく変わり、僕は助教授の研究室からM先生の研究室に助手のMiさんと一緒に移動することになった。

 

 

ちょうど自分が先生の息子であるS君と同窓生であったこともあり、自分にとってM先生は、父のような存在でもあったように思う。

 

自分はM先生が長らく力を入れてきた研究の方向性から外れて、研究室や研究室の卒業生とはずいぶん違うことをやってきたのだが、そんな分野違いの僕の仕事を90になって論文として目を通してくれる先生の存在を、自分には絶対にできないだろうと、ただ尊敬してきた。

 

 6月にMiさんから突然届いたM先生の訃報に、慌てて弔電を送った後、慌ただしい時間の中でしばらくそのことも頭の中から離れていたが、机の上に置かれていたM先生からの葉書は、たちどころに僕にM先生との幾つかの記憶を鮮明に呼び戻した。

 

今年の春からこれまでの間、自分にとって大事な人や、画面を通じて好ましく思っていた俳優などが、次々と亡くなった。

それらの死に、今、自分は戸惑うばかりである。 

 

早くして自分で生を閉じる人と、95に至るまでその生を全うする人とは、̪死への道筋は全く異なるが、死の重さが変わるわけはない。

 

ただ、その死に際して、自分が抱く気持ちが全く異なることに改めて気づかされている。

若くして失った生に募る思いは、強い無念さや残念さであり、最後まで生を全うされた先生の死の後に自分に残されたものは、大きな喪失感のようなもの、だと思う。。

 

当たり前のことではあるが、もう学会で元気な先生の姿を見ることは完全に、無くなった。

 

それでも自分にはまだ、当時の先生の記憶は鮮明に残っている。

 

記憶を記憶として、果たしてどこまで留め続けられるだろうかという不安を、半ばどうしようもなく抱いてはいるのだが。。